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こんにちは😄
ascot(@アスコット2022)です😄
東京・大手町のオフィス街のど真ん中に、ビルに囲まれてぽつんと佇む石碑(お墓)があります。
1000年以上前に朝廷に討たれた武将・平将門の首を祀る場所の「将門塚(まさかどづか)」は、
「祟りがある」「移転しようとした人が次々と事故に遭った」という話が今も語り継がれています。
そしてこの将門、実は東京の「神田明神」と、千葉の「成田山新勝寺」という、
まったく異なる2つの霊場に深く関わっています。
しかも巷では「この2つを同じ日にお参りしてはいけない」という噂まで存在するのです。
本記事では公式サイト・公的資料・百科事典に依拠しながら、
将門にまつわる怨霊譚・タブーの言い伝え・明治維新での祭神降格・現代の復座劇まで、
1300年にわたる二社の因縁をたどっていきます。

本記事中の「両社は同時に参拝すべからず」系の内容は、
すべて江戸期以降の俗信であって、
寺社側の公式見解ではないことを、最初にお伝えしておきます。
一説の見解

一説では、将門は神田明神では「神」として祀られ、
成田山新勝寺では逆に「祈りで鎮圧すべき怨霊」として扱われたと言います。
祀る神社と、鎮める寺院。
同じ人物をめぐって生まれた、この不思議なねじれこそが「両参りタブー」の正体といえます。
早くいえば、両社は対立するライバルではなく、同じ国難に対して違う結末を出した「補完関係」にあります。

タブーの噂は江戸後期〜明治期に生まれた俗信であり、
両寺社が公式に禁じているわけではありません。
二社を一覧で比較
| 比較軸 | 神田明神(神田神社) | 成田山新勝寺 |
|---|---|---|
| 宗格 | 神社(神道) | 真言宗智山派 大本山(仏教) |
| 主祭神 / 本尊 | 一之宮・大己貴命 二之宮・少彦名命 三之宮・平将門命(まさかど様) |
不動明王 (弘法大師・空海が一刀三礼で開眼した御尊像) |
| 創建 (社伝 / 公式縁起) |
天平2年(730年) 出雲氏族・真神田臣が武蔵国豊島郡芝崎村(現・千代田区大手町付近)に創建 | 天慶3年(940年) 朱雀天皇の勅命を受けた 寛朝大僧正が開基 |
| 平将門との関係 | 延慶2年(1309年) 三之宮として合祀(公式社伝) | 940年、乱の鎮定祈願で開基(公式縁起) |
| 将門に与えた役割 | 怨霊を「神」として昇格させ、地域守護へと転換 | 祈りで怨霊を「鎮圧」 (「新勝」は「新たに勝つ」の意) |
| 江戸期の全国的な役割 | 徳川家康が関ヶ原(1600年)後、 江戸総鎮守(江戸城表鬼門・艮の方位守護)として確立 |
「成田のお不動さま」「成田不動」として 江戸庶民の間に浸透 |
| 現代のご利益 (民間伝承) |
縁結び・商売繁盛・厄除け | 家内安全・交通安全・心願成就・厄除け |
※出典:神田明神公式サイト / 成田山新勝寺公式サイト / Wikipedia「成田山新勝寺」

神道と仏教と違うものでの絶妙なバランスが、
将門伝説の面白さでもあります!
神田明神とは ── 平将門を「祀る側」の神社

(引用:HP)
神田明神について、ざっくりと紹介していきます。
祭神は三柱すべて「対」になっている

神田明神の正式名称は「神田神社(かんだじんじゃ)」で、
江戸時代までは「神田明神」の通称で呼ばれてきました。
【御祭神は3柱】
- 一之宮・大己貴命(だいこく様) :縁結び・国土経営の神。出雲大社の主祭神・大国主命と同一神。
- 二之宮・少彦名命(えびす様) :医薬・健康の神。神話では大己貴命と並んで国造りをした神。
- 三之宮・平将門命(まさかど様) :939〜940年に朝廷を相手に挙兵した武将。
非業の死を遂げ、後に三之宮として合祀された。
一之宮が縁結び、二之宮が医薬、三之宮が厄除──
この並びは、出雲系氏族の三神構成と、関東の怨霊鎮魂信仰を取り込んだ歴史をそのまま反映しています。
創建は730年、将門合祀は1309年ー500年以上の断絶

神田明神の社伝上の創建は天平2年(730年)で、
出雲からやってきた真神田臣(まかんだおみ)が武蔵国豊島郡芝崎村に、
大己貴命を先祖の神として祀ったのがはじまりです。
当時の鎮座地は、現在の千代田区大手町一丁目「将門塚の周辺」にあたります。
平将門命を三之宮として合祀したのは延慶2年(1309年)です。
創建から579年も後のことで、
公式社伝には「延慶2年の社殿修復時に、将門公を合祀して『神田明神』に改称した」と記されています。
つまり神田明神は、もともと将門とは無関係の、出雲系氏族の氏神だった──ここが出発点として重要です。
※:出典:神田明神公式サイト / 神田明神1300年事業「HISTORY」 / ダイヤックオンライン
成田山新勝寺とは ── 平将門を「鎮める側」の寺院

(引用:HP)
成田山新勝寺は「平将門を倒すための祈祷」を起源として開山された寺としての見解を紐解いていきます。

そのため、将門を英雄・守護神として崇敬する側から見ると、
成田山は歴史的に「将門の敵方」に位置することになります。
「神護新勝寺」は「神が護り、新しく勝つ」の意味

(引用:HP)
成田山新勝寺の開基は天慶3年(940年)で、
朱雀天皇が真言宗の高僧・寛朝大僧正(かんちょうだいそうじょう)に勅命を下し、
平将門の乱を平定するための護摩祈祷(ごまきとう)を関東で執り行った─これが公式縁起です。
乱の平定後、朝廷から「新たに勝つ」の意で「神護新勝寺」という寺号が下賜され、
勅願所(ちょくがんしょ)として位置づけられました。

「新勝(しんしょう)」という寺号そのものに意味がこめられています。
本尊は「空海一刀三礼」の不動明王

(引用:HP)
御本尊の不動明王は、真言宗の開祖・弘法大師空海が、
一刀三礼(ひと彫りごとに三度礼拝する)の祈りをこめて自刻開眼したと伝わる御尊像です。
成田市公津ヶ原(こうづがはら)に遷座され、護摩壇で祈祷が営まれた─
これが「祈りで怨霊を鎮める」方策の出発点でした。
「成田=将門調伏の総本山」は江戸期以降の語り

(引用:HP)
ここで重要な留保があります。
成田山新勝寺の940年開基自体が「将門調伏」のための祈願所であることは
寺側公式縁起として明記されていますが、
「成田山が将門調伏の総本山である」と一般に語られるようになったのは、
江戸時代の寛永年間(17世紀なかば以降)からだと、宗教学者の間では指摘されています。
それ以前の中世において成田山は独自の霊場性が前面にあり、将門との結びつきは副次的なものでした。
「成田不動」「成田のお不動さま」と庶民信仰が広がったのは、
江戸の都市文化が両者の関係を語り始めた時期と重なります。
※成田山新勝寺公式サイト「開山縁起」 / 成田山新勝寺「成田山略年表」 / お不動さまとは / Yahoo!知恵袋

成田山新勝寺のHPにも記載されているので、
参考になります。
平将門の乱(承平の乱・天慶の乱)とは

(引用:月岡芳年 作「芳年武者无類 相模次郎平将門」)
両社の物語の起点となるのが、承平5年(935年)〜天慶3年(940年)の平将門の乱と
同時代反乱である藤原純友の乱をまとめた「承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)」です。
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| 935年 承平5年 | 将門が常陸国府(茨城県)を襲撃。国司側から攻撃されたことが反乱の発端。 |
| 939年 天慶2年 | 将門が関東の常陸・下総・武蔵・下野の4か国府を制圧。 上野国府で「新皇(しんのう)」を自称し、朝廷に対し公然と反旗を翻す。 |
| 940年 天慶3年 | 下野国押領使・藤原秀郷と常陸介・平貞盛(将門の従兄弟)が連合軍を下総国猿島郡に急襲。 将門は眉間に矢を受け戦死。 |
戦死した後も、京都の都には「将門の怨霊が、ひとびとに災いをもたらしている」という噂が広がります。
当時は「朝廷に弓を引いた人物の霊が、たたって国を乱す」という、
菅原道真・崇徳天皇と並ぶ日本三大怨霊の枠組みが、全国的に語られるようになっていました。

後の神田明神は、この「怨霊」を神として祀り昇格させることで、
社会の安定を取り戻そうとした─という流れになります。


これは「平将門が空を飛ぶ雁を睨むと雁が気絶して落下した」という伝承を描いた
江戸時代の浮世絵(歌川国芳『美楯八競 高殿落雁』)です。
もっとざっくりと「何があったのか」を解説

平安時代の939年(天慶2年)、関東で勢力を拡大した平将門が「新皇」を名乗り、朝廷と対立しました。
これが「平将門の乱」です。
そこで朱雀天皇は、僧侶の寛朝(かんちょう)大僧正に乱の平定を祈願するよう命じました。
寛朝は京都・高雄山神護寺の不動明王像を携えて関東へ下り、
現在の成田付近で21日間の護摩祈祷を行ったとするのが成田山の開山縁起です。
そして成田山の伝承では、
↓
寛朝が関東へ下向
↓
成田で21日間、将門の乱平定を祈願
↓
940年(天慶3年) 祈祷の結願の日に将門が敗死
↓
乱の平定後、朱雀天皇から「神護新勝寺」の寺号を与えられる
↓
成田山新勝寺が開山
という流れになっています。
成田市も「平将門の乱を鎮めるため、寛朝大僧正によって新勝寺が創建された」と説明しています。

つまり、単に「昔、将門と揉めた寺」という程度ではなく、
寺の創建理由そのものが将門の乱の平定とも言えます。
だから「将門を祀る神田明神」と対照的になる

ここが「因縁」といわれる最大の理由です。
東京の神田明神では、現在も平将門命を祭神の一柱として祀っています。
また将門塚では、将門の御霊を慰める例祭も行われています。
したがって信仰上の構図を単純化すると、
- 神田明神 → 将門を神として祀る側
- 成田山新勝寺 → 将門の乱を鎮める祈祷から生まれた側
という正反対の関係になります。
「両社は同時に参拝してはいけない」は本当か?

1日のうちに両方を参拝することは出来なくはないものの、
距離的にも結構離れているので行こうと思う方は少ないでしょう。
ただ、なぜ両方を同時に参拝してはいけないと言われているのかを、ざっくりと解説していきます。

電車でも約2時間・車でも1時間半くらい離れている距離です。
タブーの三層 ── 誰が語っているかで意味が変わる

両社の「対立関係」は、実際には語りの主体と時代によって、少しずつ違う内容を指しています。
- 「敵討ち」型 ── 平安後期の民間伝承
将門自身の遺臣や一族が、
自分の主君を調伏(鎮圧)するために開かれた成田山に対して敵意を持つようになった、という素朴な感情。
千年の昔から語り継がれてきた最も古い形のタブー。 - 「佐藤一族」型 ── 江戸歌舞伎由来の縁起話
歌舞伎『勧進帳(かんじんちょう)』の弁慶が属する佐藤一族は、
鎌倉時代に両方の信仰圏にまたがって動いていたため、
「全国の佐藤さんは初詣をどちらにするか迷う」という縁起話へと拡張された。 - 「両社同日禁」型 ── 江戸後期〜昭和の俗信
「両方を同じ日に参拝すると縁起が悪い」「片方は選ばないといけない」という言説。
前述の2つの系譜を前提に、江戸の都市文化の中で庶民の間に共有された禁忌意識。

諸説あるので、その一説としての見解です。
重要な断定 ── 両寺社はこれを「禁忌」としていない

実は、寺社の公式サイト・案内には「同時に参拝しないでください」という明文ルールが存在していません。
タブーの語りは、あくまで民間俗信・縁起話ベースのローカルな共有認識であって、
法的・宗教的な禁止ではありません。
両方の御朱印を集める人もいれば、成田山詣りの後に神田明神の三之宮鳳輦を見る人もいる──
現代の東京では、両者は事実上並立しています。
けれど、初詣や大切な願い事をする場面で「両社どっちにしよう?」と迷うのも、自然です。
江戸期につくられた忌避感が現代まで共有されている、とみるのが妥当です。

ただ、気になる方は同じ年に参拝するのは避けておいた方がいいかも知れません。
立地的な関係から、基本的に私は神田明神の参拝になりますが、
成田の方に行く場合は成田山新勝寺に行ったりもします。(1日では行きませんが…)
いまも関東に残る将門スポット3選

関東での将門についての言い伝えや縁のある場所を、かき集めてみました!
参考にしてみてください。
東京
| 場所 | 所在地 | 将門との関わり |
|---|---|---|
| 将門塚(首塚) | 千代田区大手町1-2-1 | 平将門の首を供養したと伝わる塚。 江戸時代から「祟りの伝説」で知られる一方、 パワースポットとしても有名。 |
| 神田明神 | 千代田区外神田2-16-2 | 祭神3柱のうちの1柱が「平将門命」。 1874年に一度外されたが、1984年に祭神に復帰。 |
| 兜神社 | 中央区日本橋兜町 | 藤原秀郷が将門の兜を埋めて供養したと伝わる「兜石」があり、 日本橋兜町の地名の由来。 |
| 築土神社 | 新宿区筑土八幡町 | 将門の首と首桶が社宝として奉安されていたと伝わる。 |
| 鎧神社 | 新宿区北新宿3-30-12 | 将門が戦死時に着ていた鎧を埋め、「鎧明神」と称したのが起源。 |
| 鳥越神社 | 台東区鳥越 | 将門の首が飛び越えたという伝説が残る。 |
| 水稲荷神社 | 新宿区西早稲田 | 将門調伏のために創建されたと伝わる。 |
| 稲荷鬼王神社 | 新宿区歌舞伎町 | 将門伝説と関わりがあるとされる。 |
茨城県
| 場所 | 所在地 | 将門との関わり |
|---|---|---|
| 國王神社 | 坂東市岩井 | 将門を祀る神社。将門の三女・如蔵尼が父の最期の地に庵を建てたのが起源(940年創建)。 |
| 延命院 (胴塚・神田山) |
坂東市神田山 | 将門の胴体を葬ったとされる塚。 境内の円墳を「将門山」または「神田山」と称する。 |
| 石井営所跡 | 坂東市岩井 | 将門が関東制覇の政治・経済・軍事拠点とした場所。 延命寺から北西200mに石碑がある。 |
| 延命寺 | 坂東市 | 将門が石井営所の鬼門除けとして建立した寺。 将門の死後に祀られた薬師如来像を所蔵。 |
| 大宝八幡宮 | 下妻市大宝 | 関東最古の八幡神社(701年創建)。将門も戦勝祈願で参拝し、 巫女によって新皇の位を授けられたと伝わる。 |
| 蔵持建長銘板碑・一族墳墓之地 | 常総市蔵持 | 将門の供養のために建てられた板碑や、将門・父・兄の墳墓。 |
| 西福寺 | 常総市新石下 | 将門公ゆかりの寺。 |
| 慈光寺 | 坂東市弓田 | 北関東三十六不動尊霊場の35番札所。 奈良時代創建の古刹で将門ゆかりの寺。 |
| 相馬惣代八幡宮 | 取手市寺田 | 将門の出生地と伝わる。境内に巨木(スダジイ、シラカシ)がある。 |
| 桔梗塚 | 取手市米ノ井 | 将門の愛妾・桔梗御前の墓。 将門が討たれたと聞き逃げた末、敵の手に落ち亡くなった場所。 |
| 平将門土偶之墓 | 取手市 | 甲冑姿の土偶。市之代古墳群にある。 |
| 歌姫明神 | 桜川市真壁町羽鳥 | 将門が歌垣を行ったと伝わる地。 |
| 子飼の渡し跡 | 常総市 | 将門と叔父・良兼が合戦に及んだ古戦場(小貝川の渡河)。 |
| 鎌輪之宿跡 | 常総市 | 将門が相馬御厨下司職を捨て、争いを離れ平和に生きようとした土地。 |
| 北山稲荷大明神 | 坂東市 | 非公式だが将門の終焉の地と地元で伝わる場所。 |
千葉県
| 場所 | 所在地 | 将門との関わり |
|---|---|---|
| 成田山新勝寺 | 千葉県成田市 | 将門の乱平定の祈願を契機に開山したと伝わる。 |
| 將門神社 (将門大明神) |
我孫子市日秀 | 将門の霊が騎馬で手賀沼を渡り朝日を拝したとされる場所に創建。 |
| 将門の井戸 | 我孫子市 | 将門が軍用に使用したと伝わる井戸。 |
| 岩井山 龍光院 | 柏市岩井 | 将門大明神(将門神社)と一つの境内に神社と寺院が並ぶ。 |
| 地蔵堂 (如蔵尼供養) |
柏市 | 将門の三女・如蔵尼が将門公とその一門を供養するために祀った地蔵菩薩を安置。 |
| 市川市大野町の将門伝説地 | 市川市大野町 | 将門が天慶元年(938年)に拠点1とした城跡の伝説が残る。 |

あくまでも言い伝えなどからかき集めてみた場所なので、
真偽はわかりません。
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まとめ

将門の呪いが事実かどうかを証明することはできません。
しかし、はっきりしているのは次の2点です。
- 敗者であった将門が、時代とともに「怨霊」から「守り神」へと評価を変えてきたこと
- その象徴である首塚が、1000年以上にわたって大切に扱われ続けてきたこと
事故や不幸な出来事が偶然重なっただけという見方もできますが、
それだけ人々が将門という存在を強く意識し続けてきたことの表れとも言えるます。
また、両参りが公式的にタブーとされているわけではありません。
ただこちらに関しては、自己責任のもと、参拝するかは検討をした方が良いです。

東京を訪れる機会があれば、
ビル群の谷間に静かに佇む将門塚に立ち寄ってみても良いとは思いますが、
お参り際は、写真撮影やマナーに十分配慮してください。
あくまでも平将門の「お墓」でもありますので…
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